1981年 3月 30 日はロナルド.レーガンが暗殺未遂に遭遇した日である。1981年から1989年まで40代大統領として8年間就任したレーガンは、就任期間中画期的な銃規制法案に署名した実績はないが、襲撃を受けた経験からブレィディ法案などの銃規制を支持した。また、一部オバマケアに類似した医療システム、移民政策、環境問題、戦略兵器削減など多数のリベラル政策を支持した。
レーガンは第一期就任後まもなく暗殺未遂を経験している。1981年3月30日、ワシントンのヒルトン.ホテルでの集会を終えた後、ホテルの外側で銃射撃事件があり、レーガンを含む4人は犯人のジョン.ヒンクリーに撃たれ負傷した。レーガンは左胸と右腕下部を負傷し病院に搬送された。大統領の側にいた他3人の負傷者のうち、大統領報道官であったジェイム.ブレィディは致命的な負傷により永久的な身体障害者となった。1974年に設立された拳銃規制委員会は、1993年11月ブレィディ拳銃暴力防止法を制定し、2001年6月にその名称をブレィディ.キャンペーンと改名した。レーガンは、1981年の事件後、特にアサルト銃などの拳銃規制を支持するようになった。暗殺未遂10年記念を迎えたレーガンは1991年3月29日に「私がなぜブレィディ法を支持しているのか」というタイトルの手紙を公開した。この手紙でレーガンは、主に暗殺未遂当時を回顧し、銃弾が心臓から外れたことが幸運だったと記載している。また、ジョージ.ワシントン大学の熟練の医者や看護婦及び妻の「不動の支え」が自分を救ったと述べている。
また、レーガンは1986年4月緊急医療治療および現役労働者法(EMTALA) に署名した。これは緊急医療システムであり、市民、法的地位に関係なく、支払い可能な個人に緊急医療を提供することを義務化した法律である。医療保険に加入していない患者は財務上の理由で、患者の健康状態または移送の安全性を考慮せず、個人の病院から民間の病院に移送される患者を見捨てる慣行を防止するためである、また、メディケアを受理しない病院が稀に存在していたため、メディケアの一貫として制定されたものである。当時は論争的であったが、現在は全く差別のない医療システムとして評価されている。この法は、病歴によって医療保険の加入資格者を差別しないオバマケアと一部類似している。
また、レーガンは1986 年11月6日に、必要条件に適合する不法移民に合法的地位を与えることを目的とした移民改正及び管理法に署名した。これは、シンプソン.マゾリー法(SMA)と呼ばれ、不法移民の雇用を禁じ、雇用主に移民のバックグランドを報告することを義務づけた。また、不法移民の一定の季節農業労働者に合法的な資格を与えた。更に、1982年1月以前から米国に在住し、犯罪歴がなく、不法移民であることを認め、罰金および税金を支払い、最小限度の米国の歴史の知識および英語力がある個人に合法的地位を与える法案を支持した。合法的資格を得た移民は5年間全ての公的福祉プログラムを受けることが可能であった。昨年6月27日に上院で通過した包括的移民改正法案の一部はSMAとかなり類似しているため、レーガンが署名したSMAがモデルになっていると思われる。
共和党は一般的に、人類の活動が気候変動、地球温暖化、オゾン層破壊の原因になっているとは信じていないが、レーガンが環境問題にリベラル思考であったことは現在の共和党にとって皮肉である。レーガンは1980年代後半に提起されたオゾン層を破壊する物質に関するウィーン条約であるモントリオール議定書を強く支持した。オゾン層破壊の原因になっているCFCやハロンなどの化学物質を減少させるため、歴史的な国際の舞台裏で規制を積極的にリードしたことで知られている。ニューヨーク.タイムスによると、レーガンの経済学者は、将来の米国の経済的ダメージを推定し、何もしないことより、環境に有害な化学物質を減少させる努力をする方が懸命であるとアドバイスしたと言われている。そのような有害な化学物質の製造、販売および貿易を規制することを目的としたモントリオール議定書は1987年9月に採択され、1989年1月から施行された。
米国は1991年7月31日、ロシアとの二国間協定である戦略兵器削減条約(START)に署名した。しかし、1982年5月START条約の交渉を提案したのは、世界の平和維持と兵器削減を早くから強調していたレーガンである。この条約は、最初の段階では全てのタイプのミサイル兵器の削減を目指し、第二段階では爆撃機および他の戦略兵器の劇的な削減を可能にした。
レーガンの政治歴は元来民主党から始まっているが、1950年代に共和党の女優ナンシー.ディビスと親密になるに従って、共和党に傾注するようになった。1950年代は民主党でありながら共和党の大統領を支持し、1967年に33代目のカリフォルニア州知事として就任した当時は完全な保守派の政治家であった。死後約10年が経過した現在もレーガンは、米史上最も人気のある大統領の一人である。しかし、支出政策に大胆であった為、負債と赤字を膨張させ、双子の赤字を生むなど、特に財政面では失敗した大統領である。