ジュンティーンスとは何か? 

トランプ大統領はオクラホマ州のタルサで6月19日のジュンティーンスの記念日にキャンペーンの集会を行う予定であったが、延期すると発表した。1921年、タルサでは米史上最悪の事件の一つである暴動が起きている。今年、5月25日にミネアポリスで、ジョージ.フロイドが警察によって殺害された事件以来、BLM(黒人の命も大事である)運動及び警察の改革を求める抗議活動は全米に拡大した。加えて、多数の都市では奴隷制度に関連するモニュメントが次々に除去されている。ジュンティーンスの記念日に大統領がキャンペーンを行う事を否定する圧力は強い状況がある。

米史上、偉大な大統領の一人であるエイブラハム・リンカーンは1863年1月1日に奴隷解放を宣言した。それから2年以上が経過した後、南軍のロバートE.リー将軍は1865年4月に南北戦争での敗北を宣言した。約2か月後の1865年6月19日、ゴードン.グレンジャー少将が率いる北軍の兵士はテキサス州ガルベストンに到着し、南北戦争の終焉に伴い奴隷が解放された為、アフリカ系アメリカ人は自由である事を告げた。この日、初めて実質的に奴隷が解放された。アフリカ系アメリカ人は1800年代の後半から、その日を記念するお祝いのイベントを行なっている。その記念日は6月のジューンと19日のナインティーンスを混合し、ジュンティーンス(Juneteenth)と呼ばれるようになった。彼らは、ジュンティーンス独立記念日、自由の日、開放の日とそれぞれ呼んでいる。

リンカーンの奴隷解放宣言から、約2年半年後にテキサスの白人が奴隷解放をアフリカ系アメリカ人に宣言したことは歴史的に意味がある。リンカーンの奴隷解放宣言はテキサスにはほとんど影響がなかった。新しい大統領令を執行するための北軍の規模は最小数であった為、解放宣言はテキサス人にほとんど衝撃を与えなかった。しかし、1865年4月にリー将軍が降伏し、グレンジャー将軍の連隊が到着したため、勢力はその抵抗を圧制し、克服するのに十分な強さがあった。大統領の奴隷宣言から、実際に奴隷が真の自由を得るまで、約2年半アフリカ系アメリカ人を自由にする事が遅れた理由は、① 最初に奴隷解放を伝えるためのメッセンジャーが、途中で殺害された。② 農園の労働力を維持するため、奴隷労働者が故意に知らせる事を遅らせた。③ 連邦軍は奴隷の所有者が最後の綿花収穫の利益を享受するのを実際に待っていた為、テキサスに行き、解放宣言することが遅れたとの様々な説がある。これらすべて、または、これら一部のいずれかは真実ではない可能性がある。なぜなら、国に対して、一部の反抗的な人々は、リンカーン大統領の権限に不満があった。理由がどうであれ、テキサスでは法定を遥かに超える状況があった。

155年後の今日、白人、ヒスパニック、アジア系のほぼ全ての人種が参加している全米での抗議活動は、米国で人種に対する態度が変化した事を示唆している。特にアフリカ系アメリカ人を友人であり、仲間であるとみなしている若い世代は、もはや警察の残虐行為を放置できないと決意し、警察改革が行われるまで、Covid-19の蔓延中でも抗議活動を止めないと宣言した。現在多数の都市で、警察改革の取り組みが行われている。この事情もトランプ大統領が選挙キャンペーンを行うタイミングではないことに加えて、トランプは南軍の将軍ロバートE.リーの銅像を除去する提案に反対していた。しかし、多数の州では奴隷制度を支持したモニュメントはここ数日、この抗議活動中に各地で除去され、その現象はヨーロッパにも波動している。イギリスでは週末、奴隷貿易者の銅像が除去され川に流された。米国の多数の地域で、奴隷制度の擁護に関連したモニュメントは次々に除去されている。そのような風潮下でトランプの19日の集会は、白人の至上主義者を結集するための呼びかけであると見られており、民主党上院議員カマラハリスは「ウェルカム.ホーム.パーティー」であると言った。又、トランプは時々抗議者を「凶悪犯」と呼んだ為、「法と秩序の大統領」であると自分自身を擁護し、警察への融資停止を求める声に反対し、ニューヨーク州バッファローの75歳の抗議者が警察に突き飛ばされ、重傷を追った事件についても、被害者の「計画的」な行為の一部であると示唆した。彼の表現は、トランプが益々国を分裂させようとしていると批判されている為、内部からの強い反対があり、珍しくスケジュールを変更したと言われている。

更に、オクラホマ州のタルサでは1921年に最悪の人種的暴動が発生し、歴史的に悪名高い人種差別の顕著な前例がある。1921年5月31日と6月1日の18時間で、1,000を超える家屋と企業が破壊され、推定50から300人が死亡するという最悪の流血事件が発生した。これは、オクラホマ州民を悩ませ続けている同州での恐ろしい歴史の一つである。暴力が終結するまでに、都市は戒厳令下に置かれ、何千ものタルサの人々は武装警戒下に置かれ、州で2番目に大きなアフリカ系アメリカ人の地域社会は焼失した。激しい人種的緊張の時代であったこの事件の背景には、クー.クラックス.クラン(K. K. K)第2の誕生と彼らの急速な成長、及び地域社会への攻撃、特にリンチに抵抗するアフリカ系アメリカ人の断固たる努力があり、その傾向は州全体とタルサで広範に反映された。当時、タルサの犯罪率は非常に高く、殺人で告訴された10代の白人暴徒による1920年8月のリンチを含めて、都市は非常に警戒に怯えていた。

タルサ警察はリンチの犠牲者をほとんど保護しなかったと報道された当時、悲劇が起きた原因に関する最も一般的な説明は、1921年5月30日、アフリカ系アメリカ人の靴磨きのディック.ローランドはドレクセル.ビルでエレベーターに入った時、白人のエレベーターのオペレーターであるサラ.ページの足を踏んだ為、彼女は悲鳴を上げたとされている。しかし翌日、日刊紙タルサ.トリビューンは、警察に連行されていたローランドがページをレイプしようとしたと報告した。更に同紙は「今夜ニグロをリンチ」のタイトルの記事を出版し、早期夕方までにはタルサの路上で再びリンチが語られる状況になった。語りはすぐに行動に移された。午後7時30分までには、タルサ郡庁舎の外に数百人の白人が集まり、当局にローランドの引き渡しを要求したが、保安官は拒否した。午後9時頃、ダウンタウンにあるグリーンウッドに約25人の武装したアフリカ系アメリカ人男性のグループ(その多くは第一次世界大戦の退役軍人)が裁判所に出向き、ローランドを保護するサービスを提供すると申し出たが、保安官は拒否した。白人暴徒のグループは怒り狂い、国家警備隊の武器庫に侵入しようとしたが、地元の数人の警備員によって追放された。午後10時頃、白人が裁判所を襲撃しているという虚偽のうわさがグリーンウッドを襲った。この時、アフリカ系アメリカ人の第2部隊約75人が裁判所に戻り、当局を保護するサービスを提供したが、彼らは再度断られた。彼らが出て行く時、一人の白人男性が黒人の退役軍人を武装解除しようとし、銃を発砲した。これがきっかけとなって暴動が始まった。次の6時間、ローランドをリンチできなかった事に怒った白人男性らは、一般のアフリカ系アメリカ人に怒り向け、混乱と喧騒を招いた。

人種紛争は、1960年代の後半まで続いた公民権運動が終わった後も、永久に終わることはないこを示唆する事件が続いている。ほとんどが、肌の色が異なる少数派に向けられた人種差別に基づく警察による虐待である。ガーディアンの記録によると、警察による米国での殺害は2016年だけで1,093件である。特に、黒人が殺害される度に全米での抗議活動が行われ、近年始まったBLM運動は繰り返し行われてきたが、今年は前例と同じパターンではない。白人、ヒスパニック、アジア系のほぼ全ての人種が参加している全米での抗議活動は、米国で人種に対する態度が変化した事を示唆している。特にアフリカ系アメリカ人を友人であり、仲間であるとみなしている若い世代は、もはや、警察の残虐行為を放置できないと決意し、警察改革が行われるまで、抗議活動を止めないと宣言した。12日には、フロイドが殺害されたミネアポリスを含めて、少なくとも12の都市で、警察改革を行うと公表した。その中には、ニューヨーク州、ニュージャージー、ワシントンDC、ケンタッキー州ルイビル、ワシントン州シアトル、カリフォルニア州サクラメントが含まれている。トランプが集会のスケジュールを変えることは滅多にないが、タルサに敬意を示す為、19日のジュンティーンスの記念日ではなく20日に延期すると12日に発表した。タルサは人種紛争の爪痕が深く残っている都市である。そのような歴史のある都市で、19日のジュンティーンスの集会を諦めたが、トランプはジョージ.フロイドの事件に同情と哀悼を表現したことは一度もない。

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