
By Encyclopedia Britannica
ユリシーズ・グラントは1882年に皮なめし職人の息子として生まれた。彼の父は、ユリシーズを米軍アカデミー・ウェスト・ポイントに入学させた。彼は学校の科目で乗馬と数学が得意であった。ユリシーズは、米軍アカデミーで学んでいる期間に1846年4月から1848年まで続いたメキシコ・アメリカの戦争(1846年- 1848)で、学校のクラスメートであったロバート・リーと共に戦った。しかし、酒豪であったため、1854年に軍隊からの辞職を余儀なくされた。南北戦争では、リンカーン大統領下で、後に昇格したユリシーズは、南部側の将軍となったリーと対抗する運命にあった。後に北部軍(連合)の将軍となったユリシーズは南部軍(南部同盟)が敗北した時、戦争を終えるため降参したリーの剣を受諾し、勝利を果たしたことで南北戦争での英雄になり、北部では非常に人気のある将軍として知られるようになった。
米国合衆国の第18代大統領:ユリシーズ・S・グラント
誕生と他界年:1822年4月27日 – 1885年7月23日
生誕地:オハイオ州ポイント・プレザント
就任の時期:1869年3月4日 – 1877年3月4日
副大統領:スカイラー・コルファックス、 ヘンリー・ウィルソン
政党:共和党
学歴:1843年に米軍アカデミー・ウェスト・ポイントを卒業
有名な表現:I have never advocated war except as a means of peace. (私は平和の手段を除き、戦争を提唱したことはありません。) ”My failures have been errors of judgment, not of intent.” (私の失敗は意図ではなく、判断の誤りでした。)
“The Southern rebellion was largely the outgrowth of the Mexican war. Nations, like individuals, are punished for their transgressions. We got our punishment in the most sanguinary and expensive war of modern times.” (南部の反乱は、主にメキシコ戦争の副産物でした。国家は個人のように、彼らの違反に対して罰せられます。私たちは、現代の最も血なまぐさい高価な戦争で罰を受けました。)
珍しい話(1): ユリシーズ・グラントは、ユリシーズ・ヒラム・グラントとして生まれたが、彼の名前はウェスト・ポイントに入学が許可された時に、何らかのミスによって母の結婚前の名字が追加された為、それ以来彼はユリシーズ・シンプソン・グラントに変えた。
珍しい話(2):第16代大統領エイブラハム・リンカーンが暗殺された夜、リンカーンと一緒にフォードの劇場に招待された。しかし、グラントは、子供達がニュージャージーを訪問すると彼の妻が言い張った為、劇場に行かなかった。
珍しい話(3):グラントは、音楽を聞くことがなかった。彼はわずか二曲の歌だけ知っていると述べ、その一つはヤンキー・ドゥードルであり、別の歌はわからないと言った。ヤンキー・ドゥードルは1780年代に作られた音楽であるが、ユーモラスな幾つかのバージョンがある古いメロディーである。1754年から1763年のフランスとインドの戦争中に、イギリス人が植民地時代のアメリカ人を嘲笑するために作られたものが最初の起源であり、革命戦争の期間中、アメリカ人は愛国的なプライドに変えた別のバージョンを作成した。その愛国的なバージョンは7月4日の独立記念日に、毎年各地のイベントで聞かれ、一般的に良く知られている。
珍しい話(4):グラントはスキャンダルもあった大統領であった。彼はワシントンDCの政治的プロセスに当惑され、それに気づかずに、何人かの不誠実な男性に利用された。彼は個人的にスキャンダルに関与しなかったが、問題のある男性たちと距離を置くことがなかった為、国民はグラントを弱く非効果的な大統領であると見るようになった。
珍しい話(5)):大統領の任期を終え、ホワイトハウスを去る時、グラントは学校を1843年に卒業した時の子供であるように感じたと言った。
珍しい話(6):グランドは一市民になった時、財務企業のパートナーになったがその企業は倒産したため、彼は全てのお金を失った。加えて、彼は癌で死ぬことを知り、最後の数年間で、回顧録を書くことに専念した。それは、借金の支払いと最後の一週間前まで彼の本の出版に協力した妻にお金を残すためであった。その本は即時にベストセラーになり、彼の残された家族の為に50万ドルを稼いだ。
南北戦争前までの大統領はほとんど多少なりとも軍人としての経験があるように、第18代大統領ユリシーズ・グラントも大統領に就任する前には軍人であり、この内戦が終わった時、北部で英雄であった。しかし、南北戦争(1861年4月 – 1865年5月)が始まる7年前には、酒豪であった彼は軍隊を辞職させられた為、彼はこの戦争で、ボランティア大佐の任務を引き受けたことで、指揮を取ることの重責を学ぶ機会を得た。エイブラハム・リンカーンは1860年代初期にテネシー州、ミシシッピー州などのキャンペーンで、戦略および軍隊資源を効率的に利用することに優れ、最終的に勝利に導いたユリシーズを支持していた。1862年4月テネシー州南西部シロでの過酷な流血の戦いで、一時、行き詰まった時、リンカーン大統領は、彼を解任するよう求めた人々の主張を拒否し、「私はこの男を切ることはできない。彼は戦う」と宣言した。リンカーン大統領は1863年の年末までに、ユリシーズを中尉に昇格し、連合全体の兵隊を指揮するよう任命した。1864年、グラントの軍隊はバージニア州の北部でロバート・リーの軍隊を次から次に追い詰めることに成功した。1865年、リーはリッチモンドの防御から抜け出し、ノース・キャロライナの連邦軍に加わるよう努めた。グラントの兵士たちはリーの逃亡線を断ち切り、リーをバージニアのアポナトックスで降伏させた。
南北戦争で、グラントは歴史的に顕著な功績をおさめ、ジョージ・ワシントン以来、軍隊での最高の名誉を獲得した大統領であった。その為、リンカーンによって解放された黒人からの多くの票を得て1868年の大統領選で勝利した。しかし、戦争後、グラントは様々な困難に直面した。フランスのメキシコへの介入、西部での原住民の連続的な紛争、増大するビジネスの影響、連邦政府の金融政策、戦争で破壊された南部の再建設、自由になった黒人の社会での役割など、取り組むべき問題は多かった。最大の問題は、北部および南部のアメリカ人は、奴隷解放された黒人に対して白人と同等の政治的権利を与えることを拒否したため、戦争で破壊された南部を再構築しながら、同時に黒人を保護することは非常に困難であった。グラントの最大の功績は、黒人の投票権を支持した彼が1871年4月20日、当時テロ組織と呼ばれたクー・クラックス・クラン(KKK)による人種差別の暴力と戦うため、議会が可決した法律に署名したことである。