
By The White House
ウィリアム・マッキンリーは1843 年にオハイオ州ナイルズで生まれ、短期間アレゲニー大学に通い、南北戦争が勃発したとき、田舎の学校で教師であった。北軍の二等兵として入隊した彼は、戦争の終わりに志願兵の名誉少佐として召集され、南北戦争に奉仕した最後の大統領となった。マッキンリーは法律を学び、オハイオ州カントンに事務所を開設し、地元の銀行家の娘であるアイダ・サクストンと結婚した。マッキンリーは1885年3月から1891年3月まで米国下院議員であり、その間1889年から下院予算委員会の委員長であり、1890 年に主要な関税法案を制定することに貢献した。また、1892年1月から1896年1月までオハイオ州知事として2 期務めたことから政治的経験が豊かであった。彼は1891年に大統領に再選され、第25大統領として1897年に就任した後、まもなく米西戦争に突入した。彼の指揮下で、米国はスペインの軍艦を破壊し、スペイン帝国と呼ばれるキューバ、プエルトリコ、フィリピン、グアムを制覇し、その後ハワイを併合するなど、外交政策に重点を置いていた。
米国合衆国の第25大統領:ウィリアム・マッキンリー
誕生と他界年:1843年1月29日 – 1901年9月14日
生誕地:オハイオ州ナイルズ
就任の時期:1897年3月4日 – 1901年9月14日
副大統領:ギャレット・A・ホバート、セオドア・ルーズベルト
政党:共和党
学歴:ペンシルベニア州ミードビルのアレゲニー大学を中退
有名な表現:War should never be entered upon until every agency of peace has failed (すべての平和の機関が機能しなくなるまで、戦争を開始してはなりません。)
“That’s all a man can hope for during his lifetime—to set an example—and when he is dead, to be an inspiration for history.” (生涯で人が望むことができるのは、模範を示すこと、そして死んだ時に、歴史の励みになることだけです。)
“Unlike any other nation, here the people rule, and their will is the supreme law. It is sometimes sneeringly said by those who do not like free government, that here we count heads. True, heads are counted, but brains also . . .”(他の国とは異なり、ここでは人民が支配し、彼らの意志が最高法規である。自由な政府を好まない人々は、ここでは頭数を数えると冷笑的に言うことがある。確かに、頭数は数えられるが、頭脳もそうである。)
“In the time of darkest defeat, victory may be nearest.”(最悪の敗北の時に、勝利が身近に迫っているかもしれない。)
珍しい話(1):マッキンリーは1896年に彼のキャンペーンで、映画媒体を使用し宣伝した最初の大統領候補者であった。
珍しい話(2):マッキンリー大統領は、自動車に乗車した最初の大統領である。ドイツの発明家カール・ベンツがベンツ・モーターワーゲンの特許を取得した1886年に自動車が誕生した年と見なされている。
珍しい話(3):マッキンリーは暗殺された三人目の大統領である。群集は大統領を射殺した犯人を囲み、彼を殴り始めたとの説がある。
因みに、米史の中で、4人の大統領が暗殺されている。エイブラハム・リンカーンは1865 年 4 月 14 日にワシントン D.C. のフォード劇場で頭部を射殺され1865 年 4 月 15 日に死亡した。次に、ジェームズ・ガーフィールドは 1881 年 7 月 2 日に銃撃を受け、1881 年 9 月 19 日に死亡した。ウィリアム・マッキンリーは1901 年 9 月 6 日に胸部に銃撃を受け、1901 年 9 月 14 日に死亡した。1963 年 11 月 22 日にテキサス州で暗殺されたジョンF.ケネディ大統領は、暗殺で死亡した4人目の大統領である。
マッキンリーが大統領に就任した時、キューバはまだスペインの植民地であったが、キューバ人は、独立することに必死になっていた。多くのアメリカ人はキューバに住んでおり、暴動が起きた時、マッキンリーはアメリカ人と彼らの財産を守るために戦艦U.S.S.メインをハバナに送った。数週間後、戦艦メインは爆発した。米国海軍は事故であると報告したが、米国のメディアは、戦艦が意図的に沈没させられたと繰り返し主張した。二期目が一年も経過していないある時、マッキンリーはニューヨークのバッファローでの集会で、並んでいた人々と握手をしていた。突然、手に包帯を巻いた男性が彼に近づき、マッキンリー大統領を二回銃撃した。二つの銃弾は大統領の胸に入り、彼のガードマンの腕に倒れた。マッキンリーは、彼のガードマンに襲撃者に危害を加えないよう伝え、健康上デリケートなファーストレディに、この出来事を慎重に伝えるよう要請した。マッキンリー大統領は8日後に死亡した。そして、当時副大統領のセオドア・ルーズベルトが第26大統領として宣誓した。
マッキンリーは、米西戦争での英雄であり、ニューヨークの知事であったセオドア・ルーズベルトを二期目の副大統領として選択した。マッキンリーは、再選に勝利し、人気のある大統領であった。ミラー・センターによると、ウィリアム・マッキンリーは平凡な大統領であったが、長年、政治的環境に支配され、スペインとの戦争にマスコミから圧力をかけられたと見なされていた。しかし、近年のマッキンリーに好意的な歴史家は、彼がアメリカを世界強国への道に導いた決定的な大統領であったと見ている。困難な外交政策に対するマッキンリーの決定、特に対中政策と、キューバの独立をめぐってスペインとの戦争に踏み切るという彼の決定は、20 世紀の世界の舞台で、米国を新しく強力な帝国として迎えるために貢献したと見ている。つまり、友好的で思慮深いマッキンリーは、今日世界のリーダーシップを先導するようになった米国の基盤を作った大統領であると評価している。