歴代大統領の珍しい話 : 第31代大統領ハーバート・クラーク・フーバー

Photo credit : National Archives

アイオワで生まれ育ったフーバーは6歳の時、父が死亡し、母はその4年後に死亡し、孤児になるという悲惨な子供時代を過ごした。彼は、オレゴンにある叔父の家で暮らすことになり、彼の兄と妹と別れる運命にあった。フーバーはカリフォルニア州にあるスタンフォード大学に通い、地質学と鉱業を学んだ。米国は1893 年には厳しい大恐慌に見舞われていたため、1895 年に大学を卒業した時、フーバーは最初の仕事を見つけるのに苦労した。彼はシエラネバダ山脈で様々な採掘の仕事に1 年間従事した後、西オーストラリアのイースタン・ゴールドフィールズの中心地で金鉱の仕事から5,000 ドルの年収を得ていた。この給与は2021 年の約163,000 ドルに相当する。彼は自力で億万長者になり、世界中を旅していた。また、第一次世界大戦が始まる前に、ヨーロッパからアメリカ人の避難を援助し、彼は戦時中食糧配給を担当した。人気があったフーバーは大統領選に楽勝した。

米国合衆国の第31大統領:ハーバート・クラーク・フーバー  

誕生と他界年:1874年8月10日 – 1964年10月20日 

生誕地:アイオワ州ウェスト・ブランチ

就任の時期:1929年3月4日 – 1933年3月4日

副大統領:チャールズ・カーティス

政党:共和党

学歴:スタンフォード大学に1891年に入学し1895年に卒業  

有名な表現:”Children are our most valuable natural resource”(子供たちは私たちの最も貴重な天然資源です)

“Peace is not made at the Council table or by treaties, but in the hearts of men.”
(平和は、評議会のテーブルや条約によってではなく、人々の心の中で作られます。)


“A splendid storehouse of integrity and freedom has been bequeathed to us by our forefathers.In this day of confusion, of peril to liberty, our high duty is to see that this storehouse is not robbed of its contents.” (高潔さと自由の見事な倉は、私たちの先祖から受け継がれてきました。混乱と自由への危機の日に、私たちの高い義務は、この倉の中身が盗まれないようにすることです。」

“Absolute freedom of the press to discuss public questions is a foundation stone of American liberty.”(公共の疑問を議論する報道の自由は、アメリカの自由の礎石です。)

珍しい話(1): フーバー大統領はミシシッピー川の西に生まれた最初の大統領である。

珍しい話(2):プライバシーが欲しかったフーバーと彼の妻は、お互いに北京語で話したため、ホワイトハウスの職人は、彼らの個人的な会話を理解しなかったとの説がある。しかし、ファーストレディのルー・フーバーが毎日中国語を勉強していたため、妻を通して中国語を学んだフーバーは「100 語以上を吸収したことはない」と告白したと言われている。

珍しい話(3):フーバは孤児で始まり、大学で地質学を学び、鉱山技師として豊かになり、大統領になった最初で最後の大統領である。

フーバー大統領が就任した数ヶ月後、株式市場は崩壊し、大恐慌が始まった。銀行は破綻し、ビジネスは崩壊し、人々は仕事を失い、人々はフーバーを批判した。その後、フーバーは、銀行と企業にはローンを提供したが、失業しホームレスになった人々を援助しなかったため、景気後退で苦境に直面していた人々に関心がないように思われた。彼の任期中の4年間で、フーバーが試みた経済政策はいずれも米国の経済を向上させることはなかった。彼の政権下で失業者は約1,400万人に達した。中間選挙(議会選挙)や総選挙(大統領選挙が含まれる)で、国民が誰を選出するかの決定の最も重要な要素は経済であることは現在も引き続き同じであるように、フーバーは1932 年二期目の再戦に敗北した。

歴史家は一般的に、フーバーが良い大統領として評価していないが、共和党であった彼は両党の政権で奉仕した明白な超党派の大統領であった。民主党ウッドロー・ウィルソン政権下で1917 年 8月から1918 年 11 月まで、米国食品局のディレクターであった。1921 年 3 月から1928 年 8 月まで、共和党大統領ウォーレン・ハーディング政権下で商務長官を務めた。まだ若かった彼は「第二次世界大戦後の数年間、引き続き公共サービスに献身した。民主党のハリー・トルーマン政権で、フーバーは 1946 年に世界飢饉のための食料供給の調整役を務め、ドイツとオーストリアの占領政策について米国政府に助言した。ケンタッキー大学の歴史学准教授デビッド・ハミルトンによると、「1947年に共和党主導の議会は、フーバー委員会として知られる政府行政組織委員会を設立し、フーバーを委員長として任命」した。歴史学者および米国人は、フーバーの大恐慌に対する対処を批判したが、「歴史家は、フーバーが自発的主義を受け入れ、社会科学の専門知識を信頼し、アメリカの経済秩序の様々な部分間の協力を奨励し、無情で反動的な保守主義ではなく、彼の時代の進歩的な社会思想に根ざしていると指摘し、1970年の初期から、フーバーの評判は回復し始めた」とハミルトン教授は述べている。

最後に、ハーバート・フーバー大統領は1919年に、個人的、経済的、政治的自由の原則および自由な企業、権限を制限された政府を促進するためのアメリカの公共政策シンクタンクおよび研究機関であるフーバー研究所を設立した。この機関はスタンフォード大学の一部門であり、独立した監督委員会を保持し、独自の収入と寄付に依存している。スタンフォード大学のキャンパスとワシントン DC にあるフーバー研究所は現在、経済的繁栄、国家安全保障、および民主的統治を促進する政策構想を生み出すことに専念している米国の卓越した研究機関である。フーバー大統領は勤労者であり、人間としての精神を重視する個人であり、両党の大統領下で公共サービスに献身したことから、フーバー研究所は、創設者であるハーバート・フーバーの超党派的な側面が一部反映されている。

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