
Photo credit : Journal of the American Revolution
今日12月16日は250年前(1773年)に原住民インディアンに変装したアメリカ人の入植者らが茶税に抗議するため、英国東インド会社が所有する340以上の茶箱または9万ポンド以上の紅茶をマサチューセッツのボストン港に投げ捨てた日である。ボストン茶会事件として知られているこのプロテストの余波は顕著であり、1775 年4月19日に勃発したアメリカ独立戦争につながった。
この植民地時代のアメリカで、サンズ・オブ・リバティ(自由の息子たち)と呼ばれる挑発的な草の根グループは英国政府に反抗していた。このグループは、十代から40歳代までの数百人で構成されたアメリカ独立戦争における緩やかに組織された秘密の政治団体であった。ボストン茶会事件は、モホーク族インディアンに変装した彼らが計画に基づいて実施された扇動的な活動である。彼らは、政府関係者との外交交渉が失敗した場合、イギリス東インド会社の紅茶の荷降ろしを阻止する最後の手段を密かに計画していた。イギリス東インド会社が所有していた紅茶は中国から輸入されたものである。
イギリスは、植民地に対して印紙法(the Stamp Act)と 茶法(the Tea Act)を施行し、それは入植者らの自由の権利を抑圧するものであった。印紙法はフレンチ・インディアン戦争中にイギリス政府が負った巨額の債務の返済をアメリカ植民者に負わせるために、彼らの強い反対を押し切って採決されたものである。自由の息子たちはこれらの法律を廃止することを目指していた。ボストン茶会事件やその他の政治的戦略は、政府内の不正に対する意識を高め、それに抗議することを目的としていた。自由の息子たちは後に独立戦争や革命の指導者となり、その中で著名な人物はジョン・アダムス、ジョン・ハンコック、サミュエル・アダムスなどが含まれている。ジョン・アダムスは「これは、全ての動きの中で最も素晴らしい動きだ」と歓喜した。
ボストン茶会事件の余波は多大であった。後に1789年から1797年まで米国初代大統領として、多大な貢献をしたジョージ・ ワシントンは1774 年 6 月、この紅茶を破壊した行為を強く批判した。彼は「ボストンの大義は、今後もアメリカの大義とみなされるでしょう」との声明文を書き、ボストン住民は「怒っています」と述べ、このような破壊行為は慎むべきであったと示唆した。広大な土地を保持するワシントンは、他の多くの上層階級の人々と同様に、私有財産を重視していた。ベンジャミン・フランクリンは英国東インド会社が紛失したお茶の払い戻しの必要性を主張し、彼が支払うと申し出た。茶会事件に関与したグループは原住民に変装していた為、彼らの身元はほとんど判明しなかったが、一人が逮捕され投獄された。しかし、英国議会はボストン茶会の行動に激怒した。1774 年初頭、議会は強制法として知られる一連の法律を可決した。この法律は、1773年5月に議会で制定された税制措置である紅茶法に反対し、ボストン茶会事件に参加したマサチューセッツ入植者を罰することを目的としていた。
マサチューセッツ・ベイでの入植者は、1760年代から1770年代にかけてイギリス政府に対して武装のプロテストを行う意志が熟していた。マサチューセッツ・ベイでは、この時代までに、高齢者を含む人口は総体的に増加し、政治、経済、社会、文化は徐々に安定し、繁栄していた。1750年までには人口は約180,000人まで増加した。ここでの入植者らは、イギリスの男女とは何かが明白に異なっていると理解し始めていた。1770年には、ボストンに駐在しているイギリスの兵士と入植者との間で、度重なる小競り合いがあり、それは同年3月に起きたボストン虐殺事件に繋がり、後に裁判が行われた歴史上有名な記録がある。1773年12月16日に発生したボストン茶会事件は、アメリカの革命の意識が高まっていた時であり、独立戦争は必然的であった。そして、その幕を開いた入植者は、現在のマサチューセッツ州にある進歩的でリベラルな都市ボストンに由来することを意味する。