
フランシス・ウィラード Photo credit : Milwaukee Independent
女性達が主導した進歩主義の台頭
19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて、米国では顕著な進歩主義運動の歴史が記録されている。19世紀には米国は深刻な社会及び政治問題が浮上しており、20世紀の幕開けとなった進歩主義運動はそれらの問題を解決したのである。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、女性たちによる特筆すべき二つの活動が展開された。それは、禁酒運動と女性参政権運動である。この時期、米国において都市部の人口が急増するにつれ、多くの中流階級の人々が社会問題に関心を抱くようになった。とりわけ中流階級の女性たちは、より高い教育を受ける機会が増えていたこともあり、精神的及び経済的な自己向上の可能性が広がったことで、従来の家庭内での女性の役割とみなされた家事労働だけでは満足できなくなっていく傾向が見られた。伝統的な性別役割分担の枠を打ち破ろうとした女性たちは、婦人クラブなどの団体を組織し、男性と同等の社会的、経済的、そして政治的な機会を女性にも与えるよう強く求めた。
歴史的に顕著なその一つである禁酒運動は、数多くの社会問題の温床となっていたアルコールの排除を目指すものであった。多くの進歩主義者は、社会秩序を回復するために、アメリカ社会からアルコールを排除することが不可欠な措置であると考えていた。社会福祉施設や福祉機関で働く人々は、アルコールが労働者階級の家庭にもたらす悪影響を深く懸念していた。なぜなら、酒場で何時間も過ごす労働者は、乏しい賃金を酒代に消費していた。都市部の労働者の一部は、泥酔により、家庭内暴力、時には殺人さえも引き起こしたのである。雇用主たちは、労働者が泥酔を理由に頻繁に仕事を休んだり、酒に酔った状態で工場に現れたりすることに懸念と不満を募らせていた。
こうした社会状況に憤慨している女性たちは、アルコールは労働者階級の妻や母親たちが直面する最悪の諸問題の根源であると考えていた。彼女たちは禁酒運動を通して、男性による暴力的または無責任な振る舞いを改めさせ、それによって女性たちの生活を向上させることを目指した。こうした背景の中で、1873年に最初のキリスト教婦人禁酒同盟(WCTU)が設立された。この禁酒運動には、移民排斥の動きも伴っていた。排斥の対象とされたのは、カトリック教徒やイタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャなどを含む南欧及びベラルーシ、チェコ、ハンガリー、ポーランド、ロシアを含む東欧出身の移民たちであり、彼らは酒乱となって社会問題を引き起こしていると見なされていた。1879年以降、禁酒運動の提唱者の一人であるフランシス・ウィラードは、キリスト教婦人禁酒同盟(WCTU)を結成し、その組織の指導的役割を担った。1911年までに同盟の会員数は24万を上回る人口に達し、当時のアメリカ史上、単一の女性団体としては最大規模の組織へと成長を遂げた。そして1893年には、反酒場連盟もまた、この禁酒運動に加わることとなった。1918年、酒類の製造および販売を全面的に禁止する合衆国憲法修正第18条が採択された。

エリザベス・キャディ・スタントン Photo credit : New Jersey Globe
女性参政権を求める運動は、南北戦争以前からすでに始まっていた。女性参政権獲得に向けた闘いは半世紀以上も続き、最終的に1920年に合衆国憲法修正第19条が批准されることで結実した。 19 世紀を通して、多くの参政権提唱者は「自然の権利」として、彼らの見解を支持しており、女性も男性と同じ権利を得るに値すると論じており、それは最も重要な投票権であると主張していた。1892年、エリザベス・キャディ・スタントンは「女性は自らの運命の決定者である。もし彼女を一市民として、偉大なる国家の一員としてみなすのであれば、彼女は他のすべての構成員と等しい権利を持たなければならない」と述べた。女性達は、母、妻、姉妹、娘としての女性の役割は、社会の一員としての、より大きな役割に比べれば、あくまで副次的なものに過ぎないと考えるようになった。
最後に、アメリカ合衆国第19代大統領ラザフォードB・ヘイズ(1877年3月5日― 1881年3月4日)のファーストレディで あったルーシー・ウェア・ウェッブは、強固な禁酒運動の支持者であった。歴史家たちは、彼女を「レモネード・ルーシー」と愛称で呼んでいたとされる。しかし、1831年8月28日オハイオ州チリコシーで生まれ、1889年6月25日に同州のフリーモントで他界した57年間の人生の中で、彼女は一度もその愛称で呼ばれたことはなかったとされている。ホワイトハウスから、アルコールを禁止したのは、むしろ彼女の夫であるヘイズ大統領であった。女性による参政権運動は、女性のみならず男性からも支持を集めた。彼女達の父、夫、息子らの応援に支えられて、社会一部からの激しい反対を克服し、20世紀の最初の数年間で素早く組織化された。マサチューセッツ州ボストンの社会福祉活動家ハワード・ショーのリーダシップ下で1893年までには全米女性参政権協会には13,000人がメンバーとなり、1917年までには200万人に増加した。進歩主義時代における唯一最大の女性による改革運動でアメリカ史上最大の運動の一つと言える女性参政権を求める闘争は成功したのである。この運動は、基本的な政治的権利を獲得するため、女性達が何十年にもわたり繰り広げてきた闘争のまさに集大成であった。更に、奴隷制度廃止や南北戦争後の再建を先導した連邦議会の急進派共和党議員たちによって1869年に可決され、1870年に批准された合衆国憲法修正第15条はアフリカ系アメリカ人の男性に参政権を付与した。