歴代大統領の珍しい話 : 第17代大統領 アンドリュー・ジョンソン

By American Battlefield Trust

アメリカ合衆国の第17代大統領アンドリュー・ジョンソンはノース・キャロライナ州ローリーの丸太小屋で生まれ、文盲の両親に育てられ、貧困の中で学校に通ったことはなかった。彼は17歳の時に妻に会うまで、読書、文法、数学の基礎を学ぶことはなく、テネシー州に移転後に政治的経験を積んだ。南北戦争(1861年 4月から1865 年 5月)が勃発した時、ジョンソンはテネシーを代表する南部からの唯一の上院議員であったが、南部側を支援していなかったので、北部の人たちに支持されていた。しかし、奴隷を所有していた彼は、奴隷制度に反対していたというわけでもなく、単に米国の統一を願っていた。リンカーンは、彼の二期目の副大統領としてジョンソンを採用した。最良の大統領と呼ばれたリンカーンの副大統領の選択は致命的な間違いがあった。戦争で廃墟化した国を再建する途方もなく巨大な任務は、元奴隷を保護することも含まれていたが、ジョンソンはリンカーンの意思とはかけ離れていた。彼は、弾劾裁判に直面した最初の大統領である。

米国合衆国の第17大統領:アンドリュー・ジョンソン

誕生と他界年:1808年12月29日 – 1875年7月31日 

生誕地:ノース・キャロライナ州ローリー

就任の時期:1865 年4月15日 –  1869年3月4 日

副大統領:不在

政党:民主党

有名な表現:”The goal to strive for is a poor government but a rich people.”(努力する目標は貧しい政府ですが、裕福な人々です。)

“If the rabble were lopped off at one end and the aristocrat at the other, all would be well with the country.” (もし瓦礫が一方の端で切り落とされ、貴族がもう一方の端で切り落とされれば、すべてが国にうまく機能するでしょう。)

“Honest conviction is my courage; the Constitution is my guide.” (正直な信念は私の鋭気です。憲法は私の道標です。)

ジョンソンは1834年から1835年まで、テネシー州グリーンビルの市長を務め、1843年3月から1853年3月まで米国下院議会のメンバーとして奉仕した。更に、1853年10月から1857年10月までテネシー 州の知事を務め、1857年10月から1862年3月まで同州を代表する米国上院議員であった。また、1862年3月から1865年3月まで、テネシー州軍事政権の知事であった彼は、1865年3月から4月までエイブラハム・リンカーン大統領の副大統領であり、暗殺されたリンカーン大統領の後継者として1865年4月15日から1869年3月4日まで米国の第17代大統領であった。ジョンソンは大統領職を終えた後、1875年3月にテネシー の上院議員に再度選出されたが、1875年7月に死亡した。

珍しい話(1): ジョンソンは議会からの弾劾に直面した米国で最初の大統領であり、典型的な南部の保守派の民主党であった。

珍しい話(2):ジョンソンは、大統領職を終えた後に上院として奉仕した最初で唯一の大統領である。彼は、政府労働者を不法に解雇した為、上院議会での弾劾裁判に直面した最初の大統領になったが、1票の投票が不足した為、議会は彼をホワイトハウスから締め出すことはできなかった。

珍しい話(3):エイブラハム・リンカーンに次いで、正式な教育をほとんど受けずに大統領に就任した数少ない大統領の一人である。

珍しい話(4): 南北戦争の終わりに、アンドリュー・ジョンソンは、人種差別主義者の見解、ひどい無能さ、公的支援の政策に対する驚異的な誤算など、これまでの大統領の中で、最悪の人物と見なされている。

ジョンソン大統領は、議会が休暇の時に数千人の元南軍に恩赦を与え、元奴隷のアフリカ系アメリカ人(黒人)が白人に管理されるブラック・コードと呼ばれるシステムを設置した。バージニア大学歴史学教授のエリザベス・バロンによると、ジョンソンは連合を救うことに深く貢献したが、戦争が始まったとき、彼は奴隷解放を信じていなかった。リンカーンがジョンソンをテネシー州の軍事知事に任命した後、ジョンソンは大統領に奴隷解放宣言からテネシー州を免除するよう説得した。しかし、1863年の夏までに、彼は戦争の重要な措置として解放を支持し始めた。これは南軍を罰し、彼らから資源を奪う手段であった。再選の可能性を懸念していたリンカーンは1864年の再戦とのバランスを図るため、戦争中に民主党と共和党の「連合」党への融合を代表する副大統領として、ジョンソンのような男性が必要だと考えていた。南北戦争が1865年に終わった後にリンカーンは暗殺された為、大統領に就任した人種差別主義者の南部人ジョンソンは、非常に「奇妙なねじれた運命」において、公民権の拡大と南部黒人の参政権を含む南部の再建に失敗し起訴された。

ジョンソンは、南部州の黒人に対する完全な平等を保証する努力を阻止し、南部の権力基盤にとって、黒人の投票権が重要であると見なした議会共和党と対決する第一歩を踏み出した。ジョンソンは議会が元奴隷を保護するための法律を制定した後に拒否権を発動し、南部の知事に議会に協力しないよう奨励した。しかし、議会は1866年に、ジョンソン大統領の拒否権を克服し、米国で生まれたすべての人を市民として定義する公民権法を規定し、全ての市民の平等の権利を保護するため、憲法修正第14条を可決した。更に、議会は、上院の承認なしに連邦公務員を解任する大統領の権限を剥奪し、1867年に議会は南部の黒人に政治的および社会的権利を行使するための軍事復興プログラムを設立した。議会と国民からの支持を失ったジョンソン大統領は、在職期間法に異議を唱え、陸軍長官のエドウィン・スタントンを解雇した。議会は1868年2月に126対47の投票でジョンソンを弾劾することを決議し、彼の在職期間法違反を引用し、議会に不名誉と嘲笑をもたらしたと非難した。

要するに、在職期間法(Tenure of Office Act)は、南北戦争後の再建期間中1867年3月2日に制定された。南部に対するジョンソンの再建政策に反対した急進派共和党議員は、拒否権を乱用したジョンソンとの戦いにおいて、復興の支配権をジョンソンから奪うため、上院の同意なしに、大統領が閣僚を解任することを禁じた法律であった。南北戦争中にアメリカの弁護士兼政治家であり、リンカーン政権下で陸軍長官に任命されたエドウィン・スタントンを解任することによって、ジョンソン大統領は在職期間法を阻止しようと試みたが、翌年、弾劾に直面した。この法律は制定から20年後の1887年に完全に廃止され、1926年に米国最高裁によって違憲であると判定された。最も注目すべきことは、急進派共和党と呼ばれたリンカーン大統領が超党派の議会を維持する試みによって、人種差別者のジョンソンを副大統領として採用した後から、進歩派の共和党は、ゆっくりとそして確実に人種差別主義者の民主党に入れ替えられるようになっていったことである。

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