歴代大統領の珍しい話 :第21代大統領チェスターA・アーサー

By National Constitution Center

チェスター・A・アーサーは、奴隷廃止論者の 5 番目の子供としてバーモントで生まれ、ニューヨークで育ち、同州のユニオン・カレッジに通っていた頃、学業よりも政治問題に遥かに深い関心を抱いていた。ニューヨーク市で最も有名な法律事務所の 1 つに勤務していた彼は、逃亡奴隷を対象にした判例および路面電車内で白人と黒人を隔離する2 つの訴訟でアフリカ系アメリカ人の権利の確保に貢献した。彼は南北戦争中、ニューヨーク全体の補給官を務め、また弁護士としても成功を収めた。アーサーは1881年、穏健的な共和党候補ジェームスA・ガーフィールドの副大統領候補になった。第20代大統領ガーフィールドが暗殺される驚異的な事件前まで、彼は大統領になることを夢にも思っていなかった。新たな大統領として、突然就任した彼は、正直な政府を構築する事をモットーにしていた。アーサー大統領は1882年、歴史的に論争的な中国人排斥法に署名し、翌年重要なペンドルトン公務員法に署名した。

米国合衆国の第21代大統領:チェスター・A・アーサー

誕生と他界年:1829年10月5日 – 1886年11月18日 

生誕地:バーモント州フェアフィールド

就任の時期: 1881年9月19 日– 1885年3月 4日

副大統領:存在しない

政党:共和党

学歴: 1848年、ニューヨーク州スケネクタディのユニオン・カレッジを卒業

有名な表現: Be fit for more than the thing you are now doing. Let everyone know that you have a reserve in yourself; that you have more power than you are now using. If you are not too large for the place you occupy, you are too small for it. (あなたが今していること以上のものに適合してください。自分に余裕があること、あなたが今使っているよりも多くの力を持っていることをみんなに知らせてください。占める場所に対して貴方が大きすぎない場合、貴方はそれに対して小さすぎます。)

Men may die, but the fabric of our free institutions remains unshaken. (男性は死ぬかもしれませんが、私たちの自由な制度の構造は揺るぎません。)

珍しい話(1): チェスター・A・アーサーは、ニューヨークの自宅で就任宣誓を行った最初の大統領である。彼は、第20代大統領ガーフィールドが死亡した直後に宣誓を行なった。彼は2日後、米国議事堂で再度公式に宣誓を行なった。

珍しい話(2):彼はホワイト ハウスを改装する事を決意し、 20以上の家具を運び出し、オクションで販売した。

珍しい話(3):アーサー大統領はファッションにこだわっていたため、エレガントなアーサーと呼ばれた。彼は多数のズボンを保持しており、場合によっては、1 日に数回着替えていた。彼は、彼の個人的な人生の重要性を強調し、「私は米国の大統領かもしれないが、私の個人的な人生は、他の誰にも関係ない」と主張していた。

珍しい話  (4):アーサー大統領は1882 年春に議会が可決した米国への移民を制限する最初の重要な法律である中国人排斥法に5 月 6 日署名した。この法律は、中国人労働者の米国への移民を 10 年間完全に禁止したものである。特定の人種を完全に排除した法律は米史上初めてであり、彼はその前代未聞の法律に署名した最初で最後の大統領である。

連邦法である中国人排除法は、中国移民が特定の地域で、良好な秩序を危険に晒しているという理由で、民族労働者の米国入国を初めて禁止した。2001年に出版された「アジア系アメリカ人(Asian Americans) 」によると、1870年に最初の大陸横断鉄道の労働、 金の採掘、農業、その他の労働のために60,000人の中国人が米国に入国した。約50,000人はカリフォルの都市に移住した。その後すぐ、中国移民は、最初ヒスパニックの移民がターゲットにされていたサンフランシスコで、移民に特別の税金を科すカリフォルニア外国人鉱夫税や罰金を含めて、法的および超法規的な嫌がらせを受けるようになった。中国移民への暴力はエスカレーとした。最悪の残虐行為は 1871 年のロサンゼルスで、18 人から 20 人の中国人が絞首刑または火刑に処された。1885 年のロック・スプリングスでは、少なくとも 28 人の中国人の炭鉱労働者が射殺された。そして1887年、アイダホ州とオレゴン州の国境にある荒れ果てたヘルズ・キャニオンで、31人の中国人金鉱夫が強盗され殺害された。1870年代、米国での中国人の人口は100,000人に達し、米国の西部都市では95%増加した。カリフォルニアおよび西部全体で、特にアイルランド移民に扇動された反中国人感情による政治運動が台頭した。1875年に議会が可決した中国人排斥法は、特にアジア系の移民に向けられたものである。1880年、米中間との交渉により、中国移民を完全に禁止せず、規定および制限する権利を米国に与えた。1882年に採用された中国人排斥法は、中国からの移民労働者を10年間禁止したものである。

アーサー大統領が1883年1 月 16 日に署名したペンドルトン法は、政治、人種、宗教、社会的地位に基づく優遇措置なしに、すべての市民が連邦政府の職を求めて競争する権利を保証するものであった。政府の仕事を求める人々は、政治的に影響力のある人々との繋がりがあっても、その仕事に的確な能力が要求された。アーサー大統領は、彼らが誰に投票し、どの党派に属していた場合でも、彼らが仕事を失うことから保護することを援助した。1883 年に可決されたこの連邦法は公務員を改革し、米国公務員委員会を設立する結果を見た。政治的後援による略奪的な不平等を廃止し、公務員採用の競争試験を確立したという意味で重要である。この公務員改革法であるペンドルトン法の目的は、米国の公務員を規制し、改善するためであり、党派的忠誠に基づく公職任務の政治慣行を終えるためであった。

要するに、1870年代から1880年後半にかけて、人口が増え、混雑し始めた都市、カリフォルニア州ロスアンゼルス、ワシントン州シアトル、コロラド州デンバー、ワイオミング州ロック・スプリングスで、反中国人移民感情がエスカレートした。1881年に就任した第21代大統領チェスター・A・アーサー政権は、米史上初めて、特定の人種に対して長年、移民を禁止した。第二次世界大戦で米国と中国が戦時同盟を1942に結成したため、1943 年にマグナソン法が可決され、米国議会は中国人排斥法を撤廃した。しかし、その後も中国からの移民は依然として年間わずか105人に制限されていた。マグナソン法は1965年に撤廃され、同年12月1日に第36代民主党大統領リンドン・ジョンソンによって署名された移民国籍法によって、米国の移民政策の基礎となった国籍による移民法は公式に廃止された。また、政党への所属ではなく功績に基づいて、連邦政府の恒久的な雇用の伝統と機構を確立する画期的な米国のペンドルトン法を擁護したことはアーサー大統領の顕著な功績である。

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