米国奴隷の起源とリンカーンの奴隷解放

Photo credit : Goalcast

今日7月22日は161年前の1862年に、エイブラハム・リンカーン大統領が奴隷解放する彼の計画を閣僚達に伝えた日である。リンカーンは、この日の数ヶ月前から準備を始めていた。非人道的な側面が顕著である米国の奴隷制度のルーツは、3つの大陸すべての歴史を何世紀にもわたって密接に結びつけたヨーロッパ人がアフリカに到着した15世紀半ばに遡る。アフリカ人がヨーロッパ人と最初に接触した結果、商業と市場は世界的に拡大した。

議会図書館の記録によると、リンカーンは1862 年 7 月までに、彼が「予備宣言」と呼ぶ草案を書き終えており、数ヶ月前から計画を練っていた。その年の7月13日に、陸軍長官エドウィン・スタントンの幼い息子ジェイムスの葬儀の機会に馬車に同乗している際、閣僚の二人と奴隷解放宣言に対する考えを話し合った。両氏はいずれも「非常に広大かつ重大な結果を伴う」と考えていたテーマについて、即時に意見を述べることはできなかったが、この措置は「正当」であり、おそらくは「便宜的かつ必要」であるとして同意した。それから9日後の7月22日、リンカーンは閣僚会議で再び奴隷解放の問題を提起し、そこで奴隷解放宣言の草案を読み上げた。もちろん、全ての閣僚が支持した訳ではなく、反応は様々であった。南北戦争の勝利を待ち、「強い立場から布告を出したほうがよい」との方針が決定した。

ニューヨーク・トリビューンの編集者ホレス・グリーリーは、リンカーンが将軍たちの確定的勝利を待っている間、戦争措置としての解放に対する国民の反応を試す機会をリンカーンに提供した。 8月20日に「2,000万人の祈り」と題して出版されたリンカーン大統領への公開書簡の中で、グリーリーはリンカーンに対し、奴隷制度が戦争の根本原因であることを認識し、解放に関して大胆に行動するよう促した。すでに奴隷解放宣言の草案を準備していたリンカーンは、グリーリーへの公開書簡で返答し、それをワシントンD.C.の国家情報局に掲載した。リンカーンは、彼の「最大の目的は連合を救うこと」であり、「奴隷制度を救うことでも破壊することでもない」が、「どこにいてもすべての人が自由になれるという私が頻繁に表明する個人的な願望を修正するつもりはない」との公式立場を明白にした。1862年9月22日の予備的奴隷解放宣言では、1863年1月1日の時点で反乱中と指定された全地域の奴隷は「その時、それ以降、永遠に自由になる」と公約されている。また、予備的宣言は「アフリカ系の人たちの補償付きの解放と自発的な植民地化」へのリンカーンの支持を繰り返し強調した。奴隷制度で経済が成り立つ南部各州の新聞の記事は予想通り、単に拒否しただけでなく、「違憲である」と主張し、「明らかに国内反乱を扇動する提案」であると非難した。また、植民地化計画を推進することは「失敗」であり「悲惨」であると言った。

一方、リンカーンの宣言に大歓迎したシカゴ・トリビューンは北部全土の新聞からの称賛の反応を転載した。リンカーンは自身の論文の中に、この宣言を支持する多数の手紙を引用した。その中には、自らを南部人であり、自称ノース・キャロライナ大学の元化学教授BS・ヘドリックは「私の意見では、戦争の問題全体はこれ(奴隷制度)に帰着する」と述べ、「米国政府の力で奴隷制度を征服し、根絶する」ことが可能であれば、「何の目的もなく戦争する」必要はないので、早急であるほど良いと述べた。そして、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは、南北戦争中の 1863 年 1 月 1 日に、奴隷解放宣言の大統領公式布告および大統領令を発令した。この宣言により、奴隷にされた数百万人のアフリカ系アメリカ人は法的地位が変更され、自由市民となった。

世界での奴隷の歴史は非常に長い。ギルダー・レーマン・アメリカ史研究所によると、奴隷制度の発展には3つの段階があり、最初は大西洋横断奴隷貿易により、黒人(アフリカ系アメリカ人)を強制的および自由にアメリカ大陸に移住させることから始まった。大西洋横断奴隷貿易は、15 世紀半ばにポルトガル船が西アフリカの海岸を航行した時に始まった。目的は金と香辛料を交換することであったが、航海者たちはさらに貴重な別の商品、つまり人間を発見した。2回目の強制移住では、奴隷の目的地はヨーロッパからアメリカ大陸に変わり、内奴隷貿易で、黒人は大西洋岸からアメリカ南部の内陸部まで輸送された。国際市場向けの商品を栽培するプランテーションはアフリカ人の大規模な移住に拍車をかけた。米国での奴隷の始まりは16 世紀初頭に、ヨーロッパの探検家に連れてこられた最初の黒人男女が北米本土に到着した時からであるとの説もある。3回目の強制移住は主に、アメリカの黒人によって開始され、黒人を南部の田舎から北部の都会へ運んだ。20 世紀の終わりから 21 世紀の初めにかけて、アフリカ系アメリカ人の生活は、世界各地からアフリカ系の人々が米国に流入するという世界的規模の移住によって、再び変化し始めた。

アフリカで貿易を開始したヨーロッパ人は最初、彼らの貿易を管理する地元の全ての法律に従いながら、アフリカの豊かな農業およびミネラル資源から利益を得た。アフリカ人はヨーロッパ人が持ち込んだ新たな技術と生産物の恩恵を受けたが、ヨーロッパ人は明らかに異なるアフリカの資源に魅了されるにつれて、ふたつの文化は対立するようになった。また、南西アフリカで捕獲した男女および子供を乗せたポルトガル奴隷船は大西洋を航海し、ポルトガルとアフリカが人間を売買し始めたため、戦争によって別の土地から来た原住民と衝突した南アフリカのオランダ人は、使用人または奴隷になり、他のヨーロッパ人は、奴隷貿易での利益を追求し始めた。その後、1770年代中頃のアメリカの入植者によって、イギリス人は敗北するが、彼らは1780年までにフランスとオランダの両方を打破し、英帝国は強力な勢力として生存した。要するに、米国の奴隷制度のルーツは、最初にポルトガル人およびアフリカ系アメリカ人の両方が奴隷を売買し始めた1450年代に遡って考えられる場合もある。リンカーンが奴隷を解放する1863 年 1 月 1 日まで、彼らは人間ではなく所有物であったことが米国の歴史の重大な側面である。従って、そのような歴史を子供達に教えたくない近年の保守政治家は、奴隷の歴史の視点を変えようとしていることは既にご承知の通りである。

アメリカ・ウオッチ- Yuko's Blogをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む