
Dallas Morning News
第36代大統領リンドンB・ジョンソンは、1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されたジョンF・ケネディの仕事を引き継ぎ、ケネディに代わって良い業績を残すことに努力した大統領である。ジョンソンは米国のリベラリズムを代表する大統領の一人であり、彼の政策は「偉大な社会」と呼ばれ、人種差別と人種憎悪を終え、空気と水を清浄に保ち、何よりも重要なことは、貧困に対する戦争を宣言したことである。LBJの愛称で呼ばれたジョンソンは体格が良く、真面目なテキサス人で、よどみなく話し、カウボーイの帽子をよく被っていた。ジョンソンは就任中、国内外の政策において、彼の大統領職に多大な影を落とす二つの顕著な危機に直面した。その一つはベトナム戦争であり、別の問題は幾つかの都市で、人種暴動が起きたことである。彼は国内外で、動乱の時代の大統領であった。
米国合衆国の第36大統領:リンドンB・ジョンソン
誕生と他界年:1908年8月27日 – 1973年1月22日
生誕地:テキサス州ストーンウォール
就任の時期:1963年11月22日 – 1969年1月20日
副大統領:ヒューバートH・ハンフリー
政党:民主党
学歴: 1930 年にテキサス州立大学の理学士号を取得して卒業後1934 年に、ジョージタウンの法律学校に入学。
有名な表現:”You aren’t learning anything when you’re talking.” (貴方は話している時には何も学んでいません。)
“A president’s hardest task is not to do what is right, but to know what is right.”(大統領の最も難しい仕事は、正しいことを行うことではなく、何が正しいかを知ることです。)
“For this is what America is all about. It is the uncrossed desert and the unclimbed ridge. It is the star that is not reached and the harvest sleeping in the unplowed ground.” (これこそがアメリカのすべてです。それは踏破されていない砂漠であり、登頂されていない尾根です。それは手の届かない星であり、耕されていない土地に眠っている収穫です。)
“If government is to serve any purpose it is to do for others what they are unable to do for themselves.” (政府が何らかの目的を果たそうとするなら、それは自分たちにはできないことを他人のためにすることです。)
珍しい話(1): リンドンB・ジョンソンは、ジョンF・ケネディが暗殺された約2時間後に、大統領専用機の中で、大統領就任の宣誓をした最初の大統領である。彼の宣誓は、初めて、女性連邦判事であるサラ・T・ヒューズによって先導された。
珍しい話(2):家族の伝統に従い、家族の全員が同じイニシャルを保持していた。例えば、リンドンB・ジョンソンはLBJであり、ファースト・レディはレディ・バード(Lady Bird : LB)であり、娘はリンダ・バード(Lynda Bird:LB)であった。
珍しい話(3):ジョンソンは、最高裁判事にアフリカ系アメリカ人サーグッド・マーシャルを指名した最初の大統領である。
ジョンソン大統領は、農村地域の貧困家庭で生まれ、第二次世界大戦中、海軍中佐として短期間勤務し、南太平洋で銀星章を獲得した。また、大学時代に一時休学し、学校の教師を務めたこともある。彼は1937年4月10日から1949年1月3日まで、米国下院議会の議員であり、1949年1月3日から1961年1月3日まで米国上院議会で奉仕した。その期間1951年1月3日から1953年1月3日まで、上院多数派のウィップ(主に議員間の規律を任務とする)であった。彼は、1953年1月3日から1961年1月3日まで民主党の党員集会の議長を務め、1953年1月3日から1955年1月3日まで上院少数派のリーダーとして、1955年1月3日から1961年1月3日まで上院多数派のリーダーであった。また、1961年1月20日から1963年11月22日までケネディ政権の副大統領であったジョンソンは政治的経験が豊富であり、生来の政治家であった。
ジョンソンの国内政策は、ケネディの意志を受け継いだものである。貧困は1950年代から増加しており、生活保護を受けている子どもの数は、1950年の約170万人から1960年には約250万人まで増加し続けていた。問題の一部は人種格差が関係しており、20年前には10%以下であった黒人若者の失業率は二倍以上に増加していた。この状況を改善するために、ケネディ大統領は貧困層の苦境を緩和するための国内プログラムを委託した。ケネディ暗殺時に大統領に就任したジョンソンは、ダラスの悲劇から帰還した後、その取り組みを継続することを決意した。ジョンソンの国内計画の中で最も物議を醸した部分のひとつは、この貧困との戦いに関係していた。1964 年に議会は経済機会法を可決し、このプログラムを運営する経済機会局を設立した。 共和党は、この法案が行政上の悪夢を生み出すものであり、民主党は共和党と妥協するつもりはないと主張し、反対票を投じた。貧困との戦いは党派間の分裂を生み出し、この政策をめぐる論争は1968年の民主党敗北の一因となり、米国は人種的、財政的、文化的に深い分裂と対立を引き起こした。
そして、ジョンソンは、人種差別、人種隔離、黒人に対する投票権の拒否を含む公民権運動の紛争にも巻き込まれた大統領でもある。1965年、アラバマ州セルマで投票権を求めて行進していた黒人デモ参加者は警察犬を利用した警察集団に襲われ、流血の惨事が発生した。ジョンソン大統領は、世論の反発に応じて、1965 年8月6日にジョンソン大統領が署名した投票権法は主に、南部州で投票率が一定の基準を下回った郡での識字テストの中止を規定していた。また、連邦当局は、アフリカ系アメリカ人の有権者を登録することを規定した。その結果、即座に黒人の投票率は数年間で倍増し、南部全域で白人の投票率に近づいた。黒人はそれまで「白人」だった民主党に加わり、白人の穏健派と異人種間の連合を形成した。
一方、ジョンソンの公民権法やリベラルな政策に反対する白人保守派は民主党を離党し、共和党に参加する傾向が顕著になった。これらの元民主党員の多くは、1964 年にアリゾナ州の米国上院議員バリー・ゴールドウォーターが、現職の民主党大統領ジョンソンに対抗すると決定した後に触発された共和党に参加した。その結果、南部の州では 1850 年代以来存在しなかった二大政党制が発展した。1964年から1968年にかけて人種暴動がアメリカの多くの都市を粉砕し、1965年8 月11日から17日までロスアンゼルスで発生したワッツ暴動やデトロイト、ワシントンD.C.の暴動にも連邦軍が出動する事態が発生した。公民権運動の指導者の一人、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは1968年の夏、メンフィスのモテルで暗殺された。
ジョンソン大統領は、歴代の大統領で、最もベトナム戦争に深く関与した一人である。彼のレガシーは、サウス・キャロライナ大学の歴史学准教授ケント・ジャーマニーによると、米国は1968年までに、ベトナムに約550,000人の軍隊を駐留させていたが、すでにベトナムで数万人の米国兵士を失っていた。ジョンソンの支持率は1965年中頃に平均70%から1967年には平均40%まで低下した。ジョンソンは外交政策では、ベトナム戦争に深くはまり込んでいたが同時に葛藤があった。彼は妻のレディ・バードに「抜け出せない、保持しているものだけでは終わらせることは出来ない。それで、一体どうしたらいいのだ?」と嘆いたという説がある。 ジョンソンはその質問に対する答えを見つけることができなかった。