
By Encyclopedia Britannica
ラザフォードB.ヘイズ大統領は1822年にオハイオ州で生まれ、ケニオン・カレッジ卒業後、ハーバード大学法学部で法律を学んだ。5年間の法律実務後に同州のシンシナティに移転し、国内改善のために保護関税、全国銀行、連邦援助などの政策を支持する弁護士として成功した。また、軍人、弁護士、および政治家として、堅実なキャリアを重ねていたヘイズ大統領は再建の終わりと産業革命の始まりによる経済成長の時代に米国最高指揮官としての任務を遂行した。一般的に歴史家は、ヘイズ大統領が勤勉、正直、誠実、および道徳的な人柄であったと見ている。ヘイズは、アメリカの歴史の中で最も長期的に論争的であり、問題のあった大統領選挙後に就任した大統領であるが、内戦で、分裂した状況を緩和するための任務に努力した。
米国合衆国の第19代大統領:ラザフォード・バーチャード・ヘイズ
誕生と他界年:1822年10月4日 – 1893年1月17日
生誕地:オハイオ州デラウェア
就任の時期:1877年3月5日 – 1881年3月4日
副大統領:ウィリアム・ウィーラー
政党:共和党
学歴:1842年ケニオン・カレッジ卒業、1845年バーバード法学部卒業
有名な表現:It is the desire of the good people of the whole country that sectionalism as a factor in our politics should disappear. They prefer that no section of the country should be united in solid opposition to any other section. — Fourth Annual Message(私たちの政治の要因としての分派主義が消えることは、全国の善良な人々の願いです。彼らは、国のどの分派も他の分派に強く反対することで、団結してはならないことを望んでいます。第4回年次メッセージ)
“It is now true that this is God’s Country, if equal rights—a fair start and an equal chance in the race of life are everywhere secured to all.”(平等な権利があれば、これが神の国であることは今や真実です。人生の競争における公正なスタートと平等なチャンスがどこでもすべての人に保証されています。)
珍しい話(1): ラザフォードB.ヘイズは南北戦争で、連合の将軍であった。彼は大統領に立候補した時、一期のみのだけ奉仕すると誓った。その為、再戦で勝利することを心配することなく、彼は良い仕事をすることに集中することができた。
珍しい話(2):ラザフォードB.ヘイズ大統領は、大統領としての職務を最優先した。他の大統領は就任の宣誓を議事堂で行うが、彼は仕事を行う場所であるホワイトハウスで宣誓した。
珍しい話(3):ヘイズは驚くべき発明に関心を示し、電話を試した最初の大統領であった。トーマス・エジソンは、ヘイズのために彼の新しい蓄音機を実演したという説がある。
ラザフォードB・ヘイズ大統領は、1877年3月5日の就任以来、共和党の大統領として、リンカーンの次にリベラルな政策を打ち出した大統領である。例えば、米国が南北戦争の傷を癒している時、南部から軍隊を撤退した最後の大統領になった。また、彼は中国から移民が米国に入国することを禁じる法律をブロックした。ヘイズ大統領はそのような政策は人種差別であり、繁栄と自由を求める人々の調和を図る上で、最大の方法は教育であると信じていた。彼は安全な自由主義、党の忠誠心、良好な軍人記録により、1876年に共和党の大統領候補として任命され、彼はそれを受け入れた。しかし、1876年の大統領選は非常に論争的であった。
ミラー・センターによると、この選挙日の終わりに、サウス・キャロライナ、フロリダ、ルイジアナでの選挙結果が不明確だったため、明確な勝利者は未決定であった。対抗者であった民主党のサミュエル・ティルデンとラザフォードB・ヘイズはいずれも、これらの州での勝利を主張したが、共和党が管理する委員会は、結果的に公式の選挙投票を決定した。両党はこれら3州の投票集計を監視し、理事会がどの票を数えるかを決定し、不正と見なした場合、それらの票を捨てることを可能にした。民主党は、3州すべての委員会が特定の地区での詐欺、脅迫、暴力によって投票が無効にされ、ヘイズが勝つために十分な民主党の投票は破棄されたと主張した。 3州の委員会はすべて、州の選挙投票をヘイズに授与した為、選挙人の投票、議会での集計も含む様々なプロセス後も長期的で激しい論争が続いた。ヘイズは元奴隷の市民権を保護することの重要性を信じていたが、南部州の民主党政権をコントロールする権力はほとんど保持していない為、最終的に南部の支配権を民主党政府に委譲し、受諾書で約束したことを超えたあらゆる条件にヘイズが同意することで、民主党は彼を大統領として受け入れた。
これらの3州は全て奴隷制度を維持していた州であり、奴隷解放後の南部のアフリカ系アメリカ人には投票権の権利がなかった歴史の一幕を浮き彫りにしている。米国では1870年まで、財産を保持する白人男性のみが投票を許可されており、同年に承認された憲法改正第15条は全人種の男性に投票権を拡大した。しかし、アフリカ系アメリカ人に対しては、州の憲法や法律、識字テスト、投票税など、様々な規制によって、彼らが投票する権利は依然として拒否されていた。1964年に承認された憲法改正第24条は、連邦選挙での投票税の使用を禁止した。しかし、人種および性別に関係なく、すべての人々が投票できることを保証した1965年の投票権法に当時の民主党大統領リンドン・ジョンソンが署名し、公民権運動のリーダーであったマーティン・ルーサー・キング・ジュニアと祝った1965年8月まで、黒人に対する法的投票権は保証されていなかった。この投票権の一部は修正の理由も含めて米国最高裁が介入した。最高裁は2013年6月25日を含めて、少なくとも二回1965年の投票権を修正または弱体化した。その後、共和党が支配する州では、投票を制限する法律を推し進めた為、現在、更にその動きは過激になり、最も影響を受けている有権者はアフリカ系アメリカ人である。